清ちゃんの オーバーホール日記 |
日向往還を馬見原まで走破して、数週間経った頃、再度、馬見原まで行こうと思った。地図などを見ていると日向との国境(くにざかい)まで、あと少しという事に気が付いた。ついでなら肥後の国は全線走破しておきたい、そう考えたのである。そう決めた数日後、台風が近づいているという悪条件の下、出かけた。晴れてはいるものの、いつ天候が崩れるか分からない。時折強い風が吹くような日であった。 | |
細川藩献上茶畑跡 |
国境 |
馬見原の街にクルマを停め、そこから走り始める。馬見原小学校横から国道を横切る狭い道を通り、上っていく。やがて国道と離れ、上りつめた分岐に馬見原一里木跡の標がある。更に国道脇の狭い道へと下っていく。ここで畑仕事をしている夫婦に挨拶をする。驚いたことに若夫婦である。これまでいろんな所で農作業をしている人達に挨拶してきたが、若い人は珍しい。逆に頼もしい感じを受けた。日本の農業を支えてほしい。その後、小さな集落がありそこを上って行く。 | |
日向側杉林 |
馬見原一里塚跡 |
上りつめるちょっと手前に史跡・国境と書いた表示がある。実はこの奥に国境の小さな石塔があるのは分かっているのだが、一面、夏草に覆われている。もう奥まで行く気にはならなかった。かっては竹林もなく、見通しがよくて阿蘇が眺められた地だった。近くには細川藩に献上する茶畑跡も残っている。昔の茶屋跡もコンクリートで固められ小さな平地として残っている。馬見原から一山半越えれば日向の国になる。昔は国境の町だった事が体感できる。どうりで番所が必要だった訳だ。さて、日向の国に少し足を踏み入れようかと思い、細い山道を進むと傾斜の強い坂、かなり路面は悪い。その先は深い杉林、途中まで行くが引き返した。これ以上進むのであれば自転車ではなく徒歩で行った方がいい、そう感じた。 | |
日向往還には昔からの石標が数多く残っている。もちろん文字を読める人が少ない時代である。当然難しい漢字ではなく、簡単な漢字とひらがな表記になっている場合が多い。男成神社に向かう途中に“竜の鼻の道標”というのがある。元禄12年のもので、県内最古の道標、300年以上も前のものである。風化して文字は判読しにくいが「右まみはらをとおり日向へ 左なんごう高森への道」と記されているそうだ。このようなものが現存している事に驚くと共に、残してくれた地元の方々に感謝したい。 | |
こぶれがし |
県内最古の道標 |
また、石標ではないが“こぶれがし”という地名が残っている所がある。場所は聖橋の上流、あまり知られていないので訪れる人もほとんどいない。これは何かと云うと、矢部の有名な通潤橋を作る前にいろいろと試作・実験をした所である。通潤橋にはご存じの通り、3本の石の水路が通っている。おかげで豪快な放水(本来、管に溜まった土砂を排出するための装置である)を見る事ができるのだが、水路に関しての構造や工法に様々な工夫がなされた。 | |
道標 |
|
石の水路で問題なのは水の潤滑な流れと漏れである。そのため、事前に何度も何度も実験が繰り返された。石橋と同じ耐久性も要る。特に石と石を繋ぐための漆喰(しっくい)には努力を強いられた。言わば接着剤であるが水に強く、耐久性も要る。切った石を前に漆喰を塗り通水してみる。ここは当時の技術者達が集まり、知恵を絞り、論議をたたかわせた場所である。今は草に覆われていてよく見ないと何があるのか分からないが、こうした遺構が少しでも残っている事は素晴らしいと感じる。 | |
通潤橋水路 |
|
このように日向往還にはあまり知られていないものを含めて、様々な石標や石の遺構が残されている。山都町や美里町、東洋村には大小いろいろな石橋も数多くある。種山石工集団もいたし、多くの名工を生み出していった。現存しているものを見ても感動と共に考えるものもある。石工の中には長崎まで勉強にいった者もいる。欧州の石の文化(建物や橋等の建造物)を学んだはずである。欧州の石の文化は古くはローマ帝国にまで遡る。もっと突き詰めていけばピラミッド辺りからの文化かもしれない。シルクロードを伝わってきた技法もあると考える。日本には古来の山城に見られる石垣などの石の文化もあった。それらと融合したものが今でも九州に残っているのかもしれない。そんな事を考えていくと興味は尽きない。 | |
秋しぐれの歌碑 |
|
そうそう、御岳小学校先から国道に出るところに小さな石碑がある。古いものではなさそうだが、昔の四差路跡で民家の近くにある。写真では見にくいだろうが、「秋しぐれ 力石あり 村の辻」とある。何だか今の季節にぴったりの句で思わず微笑んでしまった。側に咲いてたコスモスがふわりと風に揺れていた。 |