最後は津奈木太郎峠である。薩摩街道の津奈木太郎峠はまた別の場所にある。今回は旧国道3号線の峠に向かう。ところで三太郎峠と言うが、その峠に○○太郎という人が住んでいたわけではない。太郎は「垂れた尾根=たるおね」の意味であり、これが「たろう」に転化していく。峠に立つと分かるが稜線の途中、山の頂上ではなく尾根が続いている。ともかく、佐敷の町からそのまま現国道をしばらく走って行く。一度現峠を越えて帰りに旧国道を通るというルートを選んだ。現国道は自転車には優しくない。 |
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下り坂の途中から右に入る道があるはずだが、ちょっと見落としたのか、少し行き過ぎる。私の場合、どこか行く時、○○が見えたら行き過ぎと云う目印を持っている。例えばXXのバス停とか、左に△△神社といった具合である。今回はバス停だった。とにかくUターンしてスローペースで上っていくと建設会社の横に道がある。これだと思い曲がった。 |
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曲がった途端、通行止め?いやいやよく見ると“雨の時は通行禁止”という看板だった。しばらく行くと薩摩街道への分岐がある。ここから行けば本来の津奈木太郎峠に行ける、行きたい、でも我慢、今の自分には薩摩街道(豊前街道)はちょっと荷が重すぎる。距離も長いし(なんたって鹿児島から北九州までである)、史跡も多い。 |
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これまでの豊後街道や日向往還でさえも数冊の本やパンフレット等を読み、いろんな人のブログを参考にしながら知識を得てから進んでいた。せっかく史跡があっても何も知らないと面白くないし、知っていれば、なるほどここであんな事件があったんだ等と感慨深く見る事ができる。今まで関心のなかった事だって、ちょっとした知識があるだけでモノの見方が変わってくるし、興味の深さが変わってくる。薩摩街道などは数十冊の本を読まねばならないだろうと思う。 |
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それにしても、薩摩街道分岐部分は少し広いが先はまたちょっと細くなる。道幅を変えて敵の侵入に備える工夫がある。豊後街道もそうだったが、広くなって道いっぱいに広がった敵の軍団が進むと先細りの所で行き詰まり、速度が落ちる。そこを狙って攻撃なのである。しかし、細めの道だと大変だっただろうと思う。そんな道を参勤交代の行列が通るのである。お金持ちの薩摩藩なんて1000名以上の人数、単純計算だが、仮に1000名としても、2名並んで歩いて500列、殿様の籠(でかいし長い!)やいろんな荷物を運んだとして一列が5mおきにと計算しても約2500mの行列、それが時速4kmで進んでも行列が過ぎ去るまでに40分近くかかる計算になる。 |
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行列に出くわして道端にへへっとひれ伏しても40分間ずっと我慢しなければならないのである。これが1500名だの2000名となったら1時間以上、面を上げず土下座していなければならない。おしっこも我慢である。間違ってお殿様の乗った駕籠を見ようとして面を上げた途端、「無礼者!」でその場で手討ちかもしれない。途中の茶屋なんて1000食以上の食事を準備しなければならない。次から次に到着する行列の一行に振舞うわけである。もちろん冷蔵庫などもない時代、食事やトイレ、休憩所、それに雨の日にはその対策、いろいろ想像するだけでも面白い。一行が泊まる宿場町だと、気を使うだろうが、江戸の時代、かなり潤ったに違いない。 |
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少しばかり脱線したが、ともかく薩摩街道の誘惑を振り切って旧国道を進む。この道も走りやすい。秋の風が心地よい。周りは木々が続く。そうして行くと、ここにもあった!佐敷太郎峠と同じような隧道であるが距離は少し短い。ここも入口のアーチの線が美しい。何とも表現し難いアールの微妙な線がある。年月による風化はあるだろうが、今でもエッジが出ている。しばらくの間、壁面を触ったり、擦れている銘板やアーチ部を眺めていた。遠くで季節外れの蝉の音が聞こえるが、時期がずれると何だか悲しいものがある。誰もいない山の隧道で思った叶わぬ夢、出来た当時に通ってみたかったなぁ・・・。 |