カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第251回

清ちゃんのつぶやき(その200)久住その2



 なんと、前回で250回を迎えている。つぶやきシリーズだけでも今回で200回になってしまっている事に気がついた。よくもまあ続くものである。最近は紀行文が増えてきたと感じておられる方も多いと思う。行きたい所はたくさんある。ランドナーによってその範囲が拡大したことも一つである。自転車で旅をする、何と言うか、忘れかけた夢を追いかけることができるような気がする。


山道


地面の杭
 さてさて、前回の久住の続き、久住に行ったもう一つの理由、それは豊後街道の久住側を走ってみたかったからである。特に坂梨から久住の間に今回は重点を置いてみた。久住の宿(しゅく)は別の機会に書いてみたい。今も残る昔の宿場町である。趣のある建物が残る。お殿様や家来、無数の商人や旅人が宿をとった街である。


山道


街道跡
 本や実際に歩いて街道を行った人のインターネットでの文には大分県側に入ると表示が少ないとある。今回、行ってそれを実感した。熊本県側には豊後街道と刻んだ石柱やら“歴史の道・豊後街道”と書いた小さな青い札で方向を示していたりしている。また、途中には説明板があったりするが、大分県側にはほとんどと言っていいほどない。久住の町から白丹までは比較的簡単に旧街道が見つかった(もちろん表示はない)。ところがどこをどう間違ったのか、その先がよく分からない。


行き止まり


十四里塚
 道を聞こうにも通行人がいないし、集落があっても誰も見えない。せめて道端で老人同士が立ち話でもしていてくれればと思った。あれこれと道を間違え、挙げ句の果て、三本松辺りから一旦、57号線に出る事にする。十六里木近辺はパスして次回、改めて調べ直して来ようと思った。小池野からヘキ谷への道に入ると豊後街道の表示がある。流石、熊本県!これから後戻りして大利には向かわずに波野へと向かう。途中には御茶屋跡だの十五里塚だのの説明板もあってありがたい。クルマも通らない細い杉並木の道を走っていると昔の旅人になったような感触を味わえる。


赤いリボン


街道入り口
 笹倉の町外れに出て57号線をしばらく走る。道の駅の裏手が街道跡なのだが、これが大変で消えている部分もある。戻ってはまた奥に入るという事を繰り返しながら滝室坂の上に出た。西南戦争の砲台跡やカヲの墓といった説明板もある。今日はこれからがメイン、自転車を停め、そこから坂梨まで歩いて下ろうという計画である。以前に坂梨から途中までは街道を捜して行ったことがある。その時も坂梨側の東屋に自転車を置いて徒歩で登ったが、途中で道がなくなり断念した。今回はその逆側から攻めてみようと考えた訳である。


笹倉


十五里塚
 街道跡の入口は判る。帽子を深めに被り、長袖のシャツを着て、木の枝で蜘蛛の巣を払いながら進む。途中、倒木が道を塞いだりしているものの比較的進める。気がついたが、地面に何かの表示をした杭が数メートルおきにある。木の枝にはピンクの紐が巻かれている。これのおかげで道を間違えずに進めた。これは一体何だろう?誰か調査でもしたのだろうか?


ヘキ谷入り口


愛嬌のある湧水
 ともかく暗い山の中をひたすら歩く。汗はかくが温度が下界とは比べものにならない。木々の間を抜け下っていくと、下で57号線のクルマの音が聞こえ始めた。このあたりから徐々に藪が深くなってきた。地面の杭も見えなくなってきた。ひざ下くらいまでだった藪が背の高さまでになり道を分からなくしている。進むのも困難になってきた。こんな所で滑落でもしたら誰も見つけてくれないだろうし、地面の状態も滑りそうな感じになってきた。今回はここまでにして、今来た道を引き返す。次回は鎌でも持ってこようかとも思った。





籠置き石
 自転車を停めた所に戻って考えた。こんな坂を昔の人は上ったり下ったりしていたんだ。旅人もそうだが、籠かき人夫も大変だっただろうと思った。籠を担ぎ、山坂を登り、この場所で一旦、籠を降ろし、人夫が交代する。皆、ここで汗を拭き、労をねぎらい、次の宿場を目指したのである。足元の石はそんな何百年前の光景を見てきているのである。そう思ってみると今は草に半分埋まったような平らな石さえ愛おしく感じてくる。



第252回へ続く...

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