一つの封書がメール便で送られてきた。差出人は「なるしまフレンド」、開けてみると一冊の本だった。タイトルは「カリスマサイクリスト 鳴嶋英雄の自転車(ロードバイク)の楽しみ方」というものだった。鳴嶋英雄と聞いて少し自転車を知った人なら、ああ、あの人ねと思い起こせるだろうと思う。雑誌などにもよく登場するショップ、なるしまフレンドの親分である。全国的にも知名度も高い。親分の名は知らなくとも雑誌等でショップ名は目にした事のある人も多いのではなかろうか? |
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鳴嶋さんと初めて会ったのは、今から30年以上も前、某卸会社の業者向け展示即売会だったと思う。いろいろなショップの人が来ていたが、一人だけジャージ姿、シュープレート(分かるかなぁ?今で言うクリートの事ね!)をカチャ、カチャいわせて浅黒い小柄なおっさんがやってきた(すみません!)。我々の展示していた製品を一通り見て、「おう、これとあれ10セットずつ、そっちのは5つ」とか言って注文をもらった。豪快な買いっぷりで話をしても面白いし、憎めないその笑顔が印象的だった。 |
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その後、店にも行ったりして顔馴染みになっていった。ある時、バイクの後ろにカメラケースを載せているのを見て、「お前、写真もやってるのか?俺っち(これが鳴嶋流自己呼称である)、写真屋やってたんだぜ!」と言われた。へぇ、写真屋さんだったんだと思っていたが、その当時の事も今回の本には書いてあった。その後、ホビーレースに参加するようになってからは会場で鳴嶋さん以外のなるしまフレンドの人達とも顔見知りになっていく。皆、愉快な人達ばかりだった。ユニークな人も多かった。その内、クラブ員が当時勤めていた会社に入社してくる事になろうとは思ってもいなかった。おかげで会社で実業団チームを結成するはめになってしまった。 |
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数年経った頃、ばらばらに開催されていたホビーレースをまとめよう、シリーズ化をやろうという動きが出てきた。そこでJCRC(日本サイクルレーシング協会)が発足するのである。会長は当然(?)鳴嶋さんだった。当時いろんなホビーレースが開催されていたがこれらをシリーズ化させる事でクラブチームにもやる気が出てきた。レースごとにポイントがつくようになった。目標が立てられるようになった。ポイント制の一番の功績はそれまでの年齢別という参加形式から実力別になった事だろうと思う。同じ脚力同士だと張り合いが出てくるし、事故の起こる確率も減る。下手な選手とそうでない選手が混じってしまうとお互いに危ない、どんなスポーツもカテゴリー制になっているのはそのためである。 |
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そんな発足後のJCRCレースから声がかかった。レースの移動審判をやってくれないかというものである。当然というか、引き受けてしまった。その後、数年間はJCRCやら実業団関係のレースの役員をやっていた。おかげでシーズン中は毎週の如くバイクで各地を飛び回っていた。アマ車連関係とJCRC関係とでは雰囲気が違っていた。レースそのものもアマ車連関係では目的が勝つことなので、入賞できないと思うと有力選手でも自分からリタイヤする。その点、JCRC関係ではレースそのものを楽しむことから、完走するのが目的という人までいる。ケツ争いに観客が囃したてたりするような雰囲気があったし、それを演出していた。 |
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九州に来て以降、レースに参加する機会はなくなってしまったが、鳴嶋さんからは毎年、会報やツーリングレポート等、暮れにはカレンダー等を送ってもらっている。東京から離れて早18年、当時はアランに乗っていた鳴嶋さんも喜寿を迎えられ、今ではデローザである。それでも尚且つ年間1万キロ走破を考えておられるその若さ、添付の手紙には生涯現役が目標と書いてあった。私も負けてはいられない。鳴嶋さん、これからも宜しくお願い致します。 |